想像力が生み出す「家」
「家」という言葉は、私たちが物心ついたときに覚える最初の言葉の一つかもしれません。
幼い子供たちにとって、「おうち」とはきっと、「愛着ある自分の居場所」に対する目覚めでもあって、単なる「住宅」というブツのことではないはずです。
「おうち」とは、子供たちの気持ちに寄り添う、子供たちが自由に作り上げるイメージの果実。「おうち」に目覚めた子供たちは、大人になっても、ずっと心の中に自分自身の「おうち」像を温め、育てていくに違いないのです。
家族のカタチ
大好きな家族と暮らす「おうち」。家族と過ごしたあたたかな時間の積み重ねが、やがて大人になった私たちの「家」のイメージをゆるぎないものにしていきます。
建築家は、時として、住まい手とのコミュニケーションを通してそのイメージを掘り起こし、その家族を表象する「家」像を、住宅というカタチとして、目に見えるブツに変えてく役割を果たすものなのです。
漂白された「家」
家族の死がもたらした、家族にとっての「家」の死。家族にとっての「家」像が変わらざるをえなくなったとき、住まい手は自分たちにとっての新しい「家」の創出を、建築家に託します。1976年、伊東豊雄が、夫を失った姉とその二人の娘たちのためにカタチにした住宅が「中野本町の家」でした。
受け入れがたい家族の死と、それを想起させる現実や見慣れた生活風景から可能な限り逃避すること。残された三人の家族が求めたものは、不在する家族と共に生きる、家族の新しい「家」なのでした。
建築家は、使いやすいとか、扱いやすいとか、狭いとか広いとか、生活のしやすさに結び付く一切の「家らしさ」から距離を置き、生き生きと変化する都市の喧騒からも切断し、
すべてが白く塗りたくられたU字状のチューブの中に家族を隔離させます。
だれもいない、なにもない、なにもみえない。そして、漂白されたその家の壁や天井に切り込まれた隙間から差しこむ光。それは、心に暗闇をかかえてしまった家族にとってあまりにも切実な、どうしても必要な「家」の残像や残響を、家族それぞれの心の中に映してくれるものとなりました。
住宅の死と再生
1997年、中野本町の家は、跡形もなく解体され瓦礫と化します。「自分はもうこの家は住み終えた、ここからでていきたい、という切実な想い」を抱いた家族が三人で出した決断でした。現実からの逃避を必要としなくなった家族にとって、現実をポジティブに生きていくためには、どうしてもこの住宅を壊さざるをえなくなったのでした。
住宅というブツの消滅。しかしそれは、家族にとっての「家」の死を意味することではなかったのです。「家」は、住宅の死を経て、一層家族それぞれの心の中に、瞼の奥に、形をかえて「残像」を映写し続けていくことになるはずです。

文 藤岡大学
参考文献 「中野本町の家(住まいの図書館出版局)後藤暢子、後藤文子、後藤幸子、伊東豊雄著(1998年)」
取り壊し直後の、住まい手である家族それぞれに対するインタビューを通して、中野本町の家が、家族の生と死、住宅の生と死をめぐる物語としてまとめられています。
参照 http://122.1.206.41/WWW/Project_Descript/1970-/1970-p_04/1970-p_04_j.html