「建築」は「建物」にあらず。
私たちが暮らす環境は、様々な用途を果たす多種多様な施設の群れのようにみえるものです。施設=建物とは、目の前の姿、形をもったブツのことですが、「建築」とは、そもそも既存の「建物」のありように対する批判的な「思考」のことであって、ブツではなく、「文物」として、より鋭利に世に問われることがあるのです。
「住居」は「住宅」にあらず。
一方、私たち誰しもにとって、帰る場所としてある「住宅」は、家族の入れもの=ブツには違いないのですが、「住居」という視点は、「住宅」という器よりも、その中身である家族の住まい方や、住まい手のありようといった、「無形物」=人の生に着眼しているものなのです。
青春物語としての住居論。
あたりまえだと思っていた自分の生とその環境に感じる「違和感」。青春期の私たち誰しもが通りすぎてきたこの感情は、時に、既成概念や既存の生活環境に対するに批判や破壊に対する動機づけになることがあります。
60年代後半の高度成長期を終えた日本にあって、夫婦一体となって子育てにいそしむ「標準的な」家族が、郊外で私生活を営む場としての「住宅」やその生活像が、私たちの生を貧しくする抑圧でしかないと気づいてしまったとき、建築家はそれへの批判的な思考として「住居」を語らざるをえなくなるのです。そんな、青春心情の産物として、1968年、「個室群住居」が黒沢隆によってはじめて語られたのでした。
建物から建築へ、住宅から住居へ、その二つの補助線の交点に芽生えた、既存のライフスタイルに対する鋭利な批判。「個室群住居」は、「こうあるべし」という家族像の「標準」を相対化し、様々に語り口を変えながら、「ひとり」をベースとした真に現代的な住まい像を世に問い続けていくことになります。
「ひとり」が誰とどう生きようと、あるいは「ひとり」で生きつづけようと、それは自由であるということ。紋切り型の家族の構成要素として「ひとり」があるのではなく、個性の全く違う「ひとり」ひとりを起点として、その集合した先に社会の「希望」をみること。
成長物語としての「個室群住居」は、60年代後半の社会の青春期の只中にあって、「ひとり」ぼっちから「みんな」との共生へ、そして自立した大人の成熟へ向かって、鮮やかにその道筋を示そうとしたのでした。
文:藤岡大学
写真:「個室群住居 崩壊する近代家族と建築的課題(住まいの図書館出版局) 黒沢隆著」表紙
