ひとりぼっちでこの世界にいる孤独。
それは、世界が都市化すればするほどに、
人と人とのツナガリの不自由さから開放されて、
私たちが存分に「自分」を謳歌できるようになったことの代償なのかもしれません。
演者のいない舞台をながめる観客にも、
観客のいない舞台に立つ演者にもたとえられそうな、そんな不在感を生きる私たち。
だからこそ、一方で、切実に、都市という舞台ではじまる派手なエンターテイメントに
巻き込まれてみたいと欲するのです。
あたりまえの日常における「移動」の結び目でありながら、
京都という国際観光都市への旅の玄関口でもある「JR京都駅」。
そこで、無味乾燥な日々の孤独を生きる「私」たち=観客の目に映るもの。
それは深い谷底からとめどなく湧き出る人々の群れ。
そして出会いや別れが錯綜する圧倒的なスケールの、舞台としてのコンコースの姿でした。
そこは私たちが観客として、なにかが起こる予感に満ちた群集劇を楽しむ舞台。
一方で、宙を渡る長いブリッジや、複数のエスカレーターで結ばれてゆく経路、
そしてビルの屋上まで昇るほどの大階段といった大道具を媒介として、
自ら思いっきり出会いや別れを演ずる「演者」となり、
観られる側に移り変わっていくという期待感。
「観客」であることと、「演者」であることを行き来するための場としての京都駅は、
常に変化しながら立ち現れる、ひとりぼっちな「私」たちのための今日的な
エンターテイメントの場=都市の縮図でもあるのです。

JR西日本 京都駅
文・写真 藤岡大学