確かに、ぼくたちは、この地で、この人たちと、たくさんのものにあふれて、
今このときを過ごすことをシアワセに思うし、それをリアルに感じさせてくれるまちの雑踏も大好きだ。
そこでは、だれもが世界とべったりとつながっているし、さみしくなんかないし。
だけど、一方でいつもぼくたちは、そんな「世界」のリアルへの回路を力ずくで切断し、
じぶんの「心」の声だけが聞こえるような「わたし」のリアルをどうしても確かめたくなってしまうのです。
本当の自分に立ち返るための修行としての「禅」。
鈴木大拙はそんな「禅」のもつ力や普遍性を、「禅」にゆかりのなかったひとたちに、
生涯をかけて伝えようと尽くしたのでした。
「わたし」の心のリアルに届く「術」としての「禅」。
鈴木大拙ゆかりの地、金沢にあって、「鈴木大拙館」はその「術」を追体験できる場でもあるのです。
古い住宅地の閑静な空気や、手入れされた美しい自然が喚起する、金沢らしい佇まい。
そうした魅力あるまちの只中にありながら、そこから距離を与えられ、
切断されて生まれた「間」としての水鏡。様々なフレームで切り取られ、
あらゆるものが省略されつくした、その水面に映しだされた風景は、
「からっぽ」な世界の豊穣へぼくたちを誘います。
ケンチクを媒介として、どこでもない、だれもいない、なにもない世界へとアクセスすること。
そのとき、その場所は、かくも「わたし」の「心」を静かに満たしてくれるものなのです。


鈴木大拙館 https://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/
文・写真 藤岡大学