いつの時代からか、若者にとって「大人は判ってくれない」ものであって、大人の価値観を生きるということは、均質化する凡庸な世界に自分を馴らしていくことに違いないのです。
若者が、生きていくことの「心の震え」を有形無形の「ものづくり」に託すこと。
そのとき、若者の「表現」に対する熱は、清く正しい大人社会への「背反」へと結果していくのです。
戦後の復興期を経て、成長しきった経済、拡大しきった都市を前に、熱い近代化の終わりと閉塞が時代の空気となった60年代の世界にあって、そこから鮮やかに、ドロップアウトの鐘を響かせた出来事の一つが、1962年のビートルズのデビューでした。そして、彼らのものづくり=奏でられた音たちは、世界中の若者を熱狂させるに至ります。
そのビートルズのデビューと同じ年、東京の「若者の街」として知られる御茶の水の一画にあって、そこに放たれた異彩。それが、コルビジェの血を引く建築家吉阪隆正の手による「アテネ・フランセ」校舎でした。
東京のカルチェラタンともよばれる地区の、落ち着いた雰囲気の並木通りにあって、突如あらわれた、コンクリートの塊。荒々しいコンクリート型枠のあとが、つくり手の痕跡として残り、学校名のアルファベットのレリーフが整然と散りばめられた、ピンク色に輝く大壁面。その都市の砦のような異形は、当時、機能的に礼儀正しい、ストリートの既存のビルディングの列に、突出した不協和音=不連続感を与えたはずです。
1962年の竣工以降、1973年まで3回にわたった校舎の増築工事は、それ自体が不連続な連続として、異彩が別の異彩を縫合しつつ拡大していくことになりました。
不協和音を放ちながら既存の自分自身をも否定しつつ成長していくその様は、断固世界を変えてみせるという、替えがきかない一回性の「自分自身」の生を、あくまで貫き通した生き様のようにみえてきます。
そして、かつてセカイから突出した異形が、そのまちに不可欠な風景の一つとしてその場に馴染み、人々に大いに愛されるに至る、その現在の姿に、東京というまちの懐の深さと成熟をみるのです。


文・写真 藤岡 大学
アテネ・フランセ https://athenee.jp/